あるがまま
今日は。今日も御訪問有難う御座います。
このブログを始めてから2年経ちました(正確な開始日は2005年06月12日)。
試行錯誤しながら色々な自己修養法を試してきましたが、いつもどこか上滑りな感じが消えず、ずっと悩んできました。
怒らないでおこうとか、乱暴な口のきき方はしないとか、常に自分の事は後回しにするとか、兎に角今迄の自分の嫌な面を抑える事に主眼を置いてきました。
確かに人間関係は良くなったと思います。少なくとも表面的には。
けれど、もっと深い部分ではあまり変わった様に思えません。
私の周りにも理不尽な怒り方をしたり、乱暴な言葉を遣ったり、思う様に行動したりしている人達がいます。けれど、その人達の人間関係が悪いかと言えばそうでもなく、寧ろ私が置かれている関係よりも良いかも知れません。
そこで、一つ考えたのが、私の配慮は理論上のもので、心から生じたものではないのではないかという事です。
こういう時、こうすれば印象が良くなる。そういう事しか考えていなかった様です。
理不尽な怒り方を良いと思えませんが、喜怒哀楽と言う様に、怒りだって大事な感情の一つだと思います。うちの犬や猫も怒りますが、それで犬や猫を私が悪く思う事はありません。
乱暴な言葉遣いは好きになれませんが、譲れない事を譲らないのは時として必要な筈。
感情や自我を抑える事が配慮とは限らない。そういったものを見せる事が必ずしも悪ではない。
配慮より、抑制よりもまず、相手を好きになる事が第一ではないか、と近頃思っています。先述の一見「思う様に行動している人達」は、確かに自分に正直ですが、周囲の人への思い遣りがある事で共通していました。私が人に見せていたのが遠慮、若しくは配慮なら、この人達が見せていたのは愛情、若しくは親しみでした。
以前、ある人に言われた言葉、「結局は人間に対する愛情だ」が、最近少し分かってきた気がします。
好きだから力になりたい、喜んでもらいたい。
私は一度に多くを考えながら行動出来る程器用ではありませんから、これ位の単純さが丁度良さそうです。
自分の醜い面を見せて嫌われる事はもう恐れない。嫌われたって良い。それでも私は相手を好きでいよう。好きになれなくても、良い人だと思う様にしよう。私も聖人君子ではないから、人間的にどうしても良いと思えない人が出てくるだろうが、何か一つでも良い所を探す位の努力はしてみよう。
最後まで読んで下さって有難う御座いました。今日も皆様にとって良い日であります様。
言葉を漂泊する文法人 Lio Grammaticus
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